1970年・静森23歳/北道行森 入社2年目)
北道 行森が入社して1年が経った。
まだ肩に力は入っているが、彼は確かに成長していた。
言葉選びも、取材の姿勢も、かつての自分と重なる瞬間が増えてきた。
編集長から通達があった。
「“街の声”シリーズ、次号からは北道に引き継いでみては?」
一瞬、言葉を失った。
静森にとって、この連載は“最初に任された大事な場所”だった。
人の生活に触れる手触り、名前のない想いを文字にする試み。
それらすべてが、静森の“軸”になっていた。
昼休み、屋上。
風がまだ冷たい春先。
静森は、ノートを開いたが、なにも書けなかった。
そこへ、山道が缶コーヒーを持って現れた。
言葉はなかった。ふたり、鉄柵に背を預けて空を見上げる。
「山道さん……、わたし、手放せないんです」
沈黙のあと、静かに絞り出すように言った。
「北道くんが優秀なのも分かってるし、いい記事を書くのも知ってます。
でも……これは、“わたしの場所”だったんです。最初に、やっと“居場所”ができたって感じた連載で……」
涙は出なかった。けれど声はかすかに震えていた。
山道はしばらく黙っていた。
缶を一口飲んでから、言った。
「手放すってさ、負けることじゃないよ」
「……」
「むしろ、自分が“育てた”ものを、誰かに託すって……編集者の第一歩なんじゃないかな」
静森は俯いたまま、少しだけ息を吐いた。
「……北道くん、任せたら、絶対すごく良くすると思う。
ただ、あの企画を“誰か”に渡すと、あの頃の自分まで手放すみたいで……」
山道は笑った。
「それでもいいんじゃない? 自分を超えていくのが“仕事”だよ」
翌週、静森は「街の声」を北道に引き継ぐと伝えた。
北道は、驚きながらも神妙に頷いた。
「……ありがとうございます。でも、静森さんの記事が好きでした。ずっと」
「ありがとう。でも今度は、北道くんの番。
街の声を、あなたの耳で拾ってみて」
その夜、ノートに書いた一行。
“つかんでいた手を離すことは、歩き出す誰かを信じること”

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