第一章「はじまり」 第9話「越えてはいけない線」

(1973年・静森26歳)

夕方、編集部が静かになった時間。
山道が一枚の紙を差し出した。
企画のラフかと思ったが、裏面には走り書きのメモがあった。

「今日は、このあと、少し時間ある?」

その字を見た瞬間、胸の奥に薄いざわめきが広がった。
無視することもできたのに──気づけば、頷いていた。


待ち合わせたのは、小さな喫茶店だった。
外は春の雨。窓ガラスに水滴が斜めに走る。

「……こういう話をするつもりはなかったんだ。ずっと」

山道の声は、どこか迷っていた。

「でもさ、ずっと見てた。君の文章も、君の横顔も。
それが仕事の一部だったんだと思ってた。でも、違ったんだよな」

静森は、何も言えなかった。

「結婚してもさ……消えない気持ちがあるって、どうしたらいいんだろうな」

コーヒーの香りの中で、その言葉だけが妙に生々しかった。

「……それは、わたしにどうしてほしいですか?」

自分でも驚くほど冷静な声だった。
山道は、苦笑いのような顔をしただけで、何も答えなかった。


翌朝、静森は何事もなかったかのように出勤した。
仕事もこなし、編集会議でも発言した。
だが、昼を過ぎたころには、指の先が震えていた。

誰にも、言えなかった。
特に──北道には。

もし彼に話せば、
彼はきっと怒るだろう。悲しむだろう。
でもそれは、わたしが望んでいる反応なのだろうか?

答えが出なかった。


夜、ノートを開いても、言葉が出てこなかった。
「見えないものを書く」ことが編集の本質だと信じてきた。
でも今、自分の中にある“見せられない気持ち”をどう書けばいいのか、分からなかった。


退職願を書いたのは、3日後だった。
便箋に書いた文字は震えていたが、気持ちは不思議と静かだった。

「……ここが嫌いになったわけじゃありません。
でも、ここにいると、いろんな線を見失いそうで……」

編集長は何も聞かなかった。
ただ、「静森さんらしいね」とだけ言って、便箋を受け取った。


退職のあいさつの日。
北道が駅まで見送ってくれた。
ふたりとも、何も言わなかった。

最後のホーム。
電車が滑り込んでくる直前に、静森は振り返った。

「また、会おうね」

その言葉に、嘘はなかった。
でも、本当の意味での“また”が来るのか──それはまだ分からなかった。


その夜、ノートに一言。

「好きにならなかった勇気と、手を取らなかった優しさ」

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