(1973年・静森26歳)
夕方、編集部が静かになった時間。
山道が一枚の紙を差し出した。
企画のラフかと思ったが、裏面には走り書きのメモがあった。
「今日は、このあと、少し時間ある?」
その字を見た瞬間、胸の奥に薄いざわめきが広がった。
無視することもできたのに──気づけば、頷いていた。
待ち合わせたのは、小さな喫茶店だった。
外は春の雨。窓ガラスに水滴が斜めに走る。
「……こういう話をするつもりはなかったんだ。ずっと」
山道の声は、どこか迷っていた。
「でもさ、ずっと見てた。君の文章も、君の横顔も。
それが仕事の一部だったんだと思ってた。でも、違ったんだよな」
静森は、何も言えなかった。
「結婚してもさ……消えない気持ちがあるって、どうしたらいいんだろうな」
コーヒーの香りの中で、その言葉だけが妙に生々しかった。
「……それは、わたしにどうしてほしいですか?」
自分でも驚くほど冷静な声だった。
山道は、苦笑いのような顔をしただけで、何も答えなかった。
翌朝、静森は何事もなかったかのように出勤した。
仕事もこなし、編集会議でも発言した。
だが、昼を過ぎたころには、指の先が震えていた。
誰にも、言えなかった。
特に──北道には。
もし彼に話せば、
彼はきっと怒るだろう。悲しむだろう。
でもそれは、わたしが望んでいる反応なのだろうか?
答えが出なかった。
夜、ノートを開いても、言葉が出てこなかった。
「見えないものを書く」ことが編集の本質だと信じてきた。
でも今、自分の中にある“見せられない気持ち”をどう書けばいいのか、分からなかった。
退職願を書いたのは、3日後だった。
便箋に書いた文字は震えていたが、気持ちは不思議と静かだった。
「……ここが嫌いになったわけじゃありません。
でも、ここにいると、いろんな線を見失いそうで……」
編集長は何も聞かなかった。
ただ、「静森さんらしいね」とだけ言って、便箋を受け取った。
退職のあいさつの日。
北道が駅まで見送ってくれた。
ふたりとも、何も言わなかった。
最後のホーム。
電車が滑り込んでくる直前に、静森は振り返った。
「また、会おうね」
その言葉に、嘘はなかった。
でも、本当の意味での“また”が来るのか──それはまだ分からなかった。
その夜、ノートに一言。
「好きにならなかった勇気と、手を取らなかった優しさ」

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