(1971年・静森24歳)
編集部に春の風が入り込んだある日、山道から一枚の封筒を渡された。
「今度、結婚することになった」
そう言って、彼は少し照れたように笑った。
静森は笑顔で「おめでとうございます」と返した。
ちゃんと声も出たし、表情も崩さなかった。
なのに、デスクに戻ってからの時間が、どこか紙のように薄く感じられた。
──まさか、こんなふうに動揺するとは思っていなかった。
山道は、自分にとって“ただの上司”だったはずだ。
厳しくて、優しくて、頼れて──でも、それだけのはずだった。
夕方、静森は北道に声をかけた。
「……飲みに行かない?」
ふたりきりで飲むのは、はじめてだった。
高架下の居酒屋。
焼き鳥と瓶ビール。
早くも暑くなりかけた夜の空気が、少しだけ心地よかった。
「山道さんの結婚、びっくりしましたね」
北道が先に口を開いた。
「……うん、そうだね。すごく、急だったし」
静森はビールのグラスを持ち上げたまま、言葉を探していた。
「……なんかね、わたし、ずっと勝手に安心してたのかも」
「安心?」
「“山道さんはずっと変わらない”って思い込んでたの。
いつもそこにいて、ちょっと厳しくて、でも正しくて……。
でも、それはわたしの勝手だったんだなって思って」
北道はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、グラスを静かに合わせてくれた。
──カラン。
その音が、少しだけ胸に響いた。
二軒目の小さなバー。
カウンター席に並んで座ると、距離がやけに近く感じた。
「……北道くんは、誰かを好きになったことある?」
「……え、急に?」
「うん、なんとなく」
少し照れたように笑った北道は、氷の溶けかけたグラスを見つめたまま、ゆっくりと言った。
「“自分が誰かを好きになること”って、思ってたより静かですよね。
音も色もないのに、気づいたら、もうそこにある」
静森はその言葉を、まるで自分が言ったかのように感じた。
帰り道。
駅の階段をのぼるとき、ふと、北道が口を開いた。
「静森さん、名前で呼んでもいいですか?」
一瞬、足が止まった。
「……いいよ」
その答えは、まるで前から決まっていたように、すっと出てきた。
その夜、ノートにこう書いた。
“心は、誰かの変化によって動くことがある。
でも、それ以上に、自分が気づいた“静かな揺れ”を忘れたくない”

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