第一章「はじまり」第4話「名前の途中」

入社して3日目、名刺の手配が始まった。

「印刷に回すから、名刺に載せる表記をメモしておいて」
そう言われ、静森は小さなメモ用紙を受け取った。

「名前とふりがな、あと肩書き。“編集アシスタント”でいいね?」

「……はい」

そう答えながら、机に置いたペンは動かなかった。


“静森”という名前は、彼女にとって“名乗れるもの”ではなかった。

籍上はまだ“父親の姓”のまま。
けれど、家では母親の姓で呼ばれている。
卒業式のとき、卒業証書には“父の姓”が刻まれていたけれど、
制服の裏地には“母の字”で刺繍された苗字が縫い込まれていた。

どちらも嘘ではない。
でも、どちらも“自分の名前”だと思えなかった。


休憩時間。給湯室で山道一森が、ふと静森に声をかけた。

「どう? 少しは慣れてきた?」
「……はい。まだメモばかりですが」

「うん、それでいい。大事なことって、最初はメモにしか残らないから」

静森は微笑んだ。
でも、名刺の紙が気になって、つい小声でつぶやいた。

「……名前、って、何を名乗ればいいんでしょうね」

山道は少し驚いたような顔をしたあと、湯呑みをそっと置いた。

「……そうだな。
誰かからもらった名前と、自分で名乗る名前は、違うこともある」

「……」

「名刺に書くのは、“今の自分にいちばん近い名前”でいい。
戸籍でも、書類でもない。“関係のなかの名前”ってあるからさ」


帰り道、古い文具店に立ち寄った。
棚のすみに、古びた万年筆があった。

「自分で名前を書くと、少し、違う風に思えるかもしれませんよ」
店主の言葉が、まるで予期していたようだった。

その夜。静森は、ノートの表紙に“静森”とだけ書いた。
名字も、下の名前も書かずに──そのふた文字だけ。

まだ「名乗れない」名前。
でも、やっと“書けた”名前だった。

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