入社して3日目、名刺の手配が始まった。
「印刷に回すから、名刺に載せる表記をメモしておいて」
そう言われ、静森は小さなメモ用紙を受け取った。
「名前とふりがな、あと肩書き。“編集アシスタント”でいいね?」
「……はい」
そう答えながら、机に置いたペンは動かなかった。
“静森”という名前は、彼女にとって“名乗れるもの”ではなかった。
籍上はまだ“父親の姓”のまま。
けれど、家では母親の姓で呼ばれている。
卒業式のとき、卒業証書には“父の姓”が刻まれていたけれど、
制服の裏地には“母の字”で刺繍された苗字が縫い込まれていた。
どちらも嘘ではない。
でも、どちらも“自分の名前”だと思えなかった。
休憩時間。給湯室で山道一森が、ふと静森に声をかけた。
「どう? 少しは慣れてきた?」
「……はい。まだメモばかりですが」
「うん、それでいい。大事なことって、最初はメモにしか残らないから」
静森は微笑んだ。
でも、名刺の紙が気になって、つい小声でつぶやいた。
「……名前、って、何を名乗ればいいんでしょうね」
山道は少し驚いたような顔をしたあと、湯呑みをそっと置いた。
「……そうだな。
誰かからもらった名前と、自分で名乗る名前は、違うこともある」
「……」
「名刺に書くのは、“今の自分にいちばん近い名前”でいい。
戸籍でも、書類でもない。“関係のなかの名前”ってあるからさ」
帰り道、古い文具店に立ち寄った。
棚のすみに、古びた万年筆があった。
「自分で名前を書くと、少し、違う風に思えるかもしれませんよ」
店主の言葉が、まるで予期していたようだった。
その夜。静森は、ノートの表紙に“静森”とだけ書いた。
名字も、下の名前も書かずに──そのふた文字だけ。
まだ「名乗れない」名前。
でも、やっと“書けた”名前だった。

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