第一章「はじまり」第1話「制服を脱いだ日」

(1964年3月)

朝6時すぎ。
まだ冬の名残が残る空気のなか、静森は制服の袖を最後に通した。

母とふたり暮らしの小さな家。玄関には、古びた靴と、きちんと磨かれた新しいローファーが並んでいた。
彼女が選んだのは、そのどちらでもなかった。

押し入れの奥に眠っていた、父の革靴。
履き慣れていないその感触が、足の裏からまっすぐに「これから」を伝えてくる。

「行ってくるね」

炊飯器の湯気が立ち上る台所で、母が小さく頷いた。
「行ってらっしゃい」の代わりに、味噌汁の湯気が静森の背中を包んだ。


通勤ラッシュの電車に揺られるのは初めてだった。
制服ではなく、就職祝いに買ってもらったアイボリーのブラウスとグレーのスカート。
まわりの大人たちは皆、眠たそうで、それでいてどこか苛立っていた。

「社会人一年生」と言われても、実感はなかった。
けれど、電車の窓に映った自分の顔は、見慣れた“女子高生の顔”ではなかった。

ほんの少し、遠くを見ていた。


就職先は、小さな編集部だった。
月刊の「くらしと文化」という、堅実で地味な雑誌。

編集長の女性は、初対面でも笑わず、まっすぐに静森の目を見て言った。

「あなた、紹介だからって遠慮しないで。ミスすれば怒るし、うまくやれば褒める。公平でいくから」

「……はい」

声が震えていたけれど、言葉はまっすぐに出た。


初日の仕事は、郵便物の仕分けと、文字起こし。
録音された座談会の音声を、ノートに写していく作業だった。

「……うん、私はね、“見えないもの”をどう表すかが、編集の根っこだと思っててね……」

「“匂い”や“空気”や、“気配”をね……どう書くかって話なんですよ」

カセットから流れる声が、なぜだか耳に残った。

“気配をどう書くか”

それは、昔から静森が心の中で言葉にしたかったことだった。


昼休み。屋上に上がってみると、まだ冷たい風が強かった。

東京の空は広いようで、どこか狭かった。
高層ビルの影が交差して、太陽の在りかが定まらない。

ポケットから取り出したのは、小さなノート。

高校のときから使っていた、言葉をためるためのノート。
そこに、ボールペンでひとことだけ書いた。

「音のない声が、今日もあった」


帰り道、駅前の書店に寄ると、棚の片隅に『くらしと文化』の最新号が平積みされていた。
自分が働く雑誌が、こうして並んでいる。

けれど、まだ実感はない。

ただ、誰かがそこに書いた言葉が、
誰かの家のテーブルの上に置かれて、
誰かの目に触れるのだということだけは──静かに、深く、心に落ちた。


家に帰ると、母がストーブの前でうたた寝していた。
洗濯物はすでにたたまれており、味噌汁の香りが台所に残っていた。

その夜、寝る前に、ふと空を見上げた。
月は出ていなかった。星もない、黒いだけの空。

でも、静森は思った。

この空の向こうに、
“言葉にならない何か”が、きっとある。

だから今日も、わたしは聞いていたのだ。
誰のでもない声を。風に混じっていた、あの静かな音を。


〈了〉

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