第一章「はじまり」第2話「風が変わった日」

高校2年の秋、静森の家から父親の靴が消えた。
それは突然だったようで、実際はずっと前から予兆があったのだろう。
誰もそれを言葉にしなかっただけだ。

冷蔵庫に貼られていた家計簿。
買ってもらえなかった参考書。
母の背中が、急に小さく見えたあの夜。

それらすべてが“声にならなかった会話”だった。


担任の夢森は、その変化にすぐに気づいた。
教室では何も言わない。だが、ノートに書いた文の中にある「間」のようなものに敏感だった。

ある放課後、夢森は静森を呼び止めた。
ほかの生徒たちが笑いながら帰っていくなか、静かな階段にふたりの影だけが伸びた。

「最近、言葉が少し変わったね」
「……変ですか?」

「いや、変じゃない。静かだけど、深くなった。
目に見えないものを、もっと“聞こう”としてる感じがする」

静森は答えなかった。
ただ、少しだけ視線を落とした。

「家、なにかあった?」

その声は優しくて、無理にこじ開けるようなものではなかった。
でも、なぜか涙がこぼれた。


数日後、夢森が教室でくれたのは、一冊の雑誌だった。
装丁が地味で、図書館にあるような印象の冊子。
表紙には「くらしと文化」とだけ印字されていた。

「これ、知り合いがやってる雑誌なんだ。ちょっと地味だけどね」
「……はい」
「でも、ここに書いてる人たち、みんな“暮らしの中の声”を拾ってる。
そういうの、君に合ってると思って」

静森は雑誌を抱えるように受け取った。
ページをめくると、食卓の上の湯気について書かれた随筆が目に入った。

“言葉にできない記憶を、言葉にしようとしている文章”。

そんなふうに感じた。


その日から、静森は文章に“耳”をすますようになった。
読むときも、書くときも、まるで相手の呼吸を感じ取るように。

家では、母が短時間のパートに出始めた。
2人分の暮らしは質素だったが、夜だけは温かかった。

言葉は、必ずしも声でなければならないわけではない。
そう思えるようになっていた。


進路指導の面談のとき。
進学校だった静森のクラスでは、大学進学が“当然”とされていた。

進学希望の欄に「就職」とだけ書いたとき、進路担当の教員に呼び出された。

「君の成績なら、推薦もある。なぜ進学しない?」

「……お金の問題もありますし、早く働きたいです」

そう言いながら、どこか“夢を手放した”ような感覚に包まれていた。

だが、その夜。夢森が、ノートの切れ端をそっと渡してくれた。

君は夢を手放したわけじゃない。
君は、今の生活を守るために“夢を温めてる”んだ。

その言葉が、不思議と心の奥に火をつけた。


12月、夢森が編集部に連絡を取ってくれた。
面接は穏やかで、堅実な話ばかりだったが、編集長がひとことだけ静森にこう言った。

「夢森先生が言ってた。“この子は、言葉を聞ける子です”って」

“言葉を聞ける”。

そのフレーズが、その冬ずっと胸の奥に残っていた。


春。
父の靴は、玄関からも記憶からも消えていた。

でも、新しい“足音”が始まろうとしていた。
その音は、誰かの声ではなかった。

けれど、間違いなく静森自身の中に、確かに響いていた。


〈了〉

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