第一章「はじまり」 第5話「小さな声」

「これは、静森さんが選んでみて」

山道が差し出したのは、段ボールいっぱいの手紙だった。
『くらしと文化』の読者投稿、主に地方のお便り。

「全部読むんですか?」

「目を通すだけでいい。言葉の“匂い”がしたら、抜き出して」

匂い──?

その言葉に少し戸惑いながらも、静森は席に戻った。


便せんに揃った文字たち。
インクのにじみ、折り目、押された消印の形。

それぞれに“生活の空気”が染みついている。

とある一通が目にとまった。
小さな町に暮らす、86歳の女性からの手紙だった。

「私は長いこと、“ひとりごと”を書いてきました。
でも最近、“ひとりごと”が“言葉”になる日があるのです」

その一文に、静森はふっと呼吸を止めた。

“言葉になる日がある”

それは彼女が今まさに感じていた感覚そのものだった。


翌日。山道が静森の机にやってきた。

「どうだった?」

「……この手紙が、気になりました」

静森はその一通を差し出した。
山道は黙って読み、しばらく目を閉じた。

「いい声だね。……紙面に出そうか」

「……えっ、私が選んだのに?」

「“選んだ”んじゃなくて、“拾った”んだろ。そういうのは、ちゃんと届く」

静森の胸の奥で、なにかがほどけた。


夕方。印刷所への原稿整理を終えたあと、山道がふとつぶやいた。

「“声なき声”を聞ける人って、編集の世界では少ないんだよ」

「……そうなんですか」

「みんな、言ってることは聞ける。でも、言ってないことを聞こうとはしない」

その言葉が、静森の中に深く落ちていった。


その夜。
ノートにこんな言葉を書いた。

「音のない声にも、温度がある」
誰かが読まないなら、私が読む。
誰かが拾わないなら、私が拾う。

名刺には、まだ名前を書いていない。

でも、「声を拾う人」という肩書きなら、
もう自分のなかに、少しだけ持てた気がした。

名刺には、まだ名前を書いていない。

でも、「声を拾う人」という肩書きなら、
もう自分のなかに、少しだけ持てた気がした。

──空道。
名乗るにはまだ早い。けれど、心の中ではもう、その名を歩き始めていた。

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