「これは、静森さんが選んでみて」
山道が差し出したのは、段ボールいっぱいの手紙だった。
『くらしと文化』の読者投稿、主に地方のお便り。
「全部読むんですか?」
「目を通すだけでいい。言葉の“匂い”がしたら、抜き出して」
匂い──?
その言葉に少し戸惑いながらも、静森は席に戻った。
便せんに揃った文字たち。
インクのにじみ、折り目、押された消印の形。
それぞれに“生活の空気”が染みついている。
とある一通が目にとまった。
小さな町に暮らす、86歳の女性からの手紙だった。
「私は長いこと、“ひとりごと”を書いてきました。
でも最近、“ひとりごと”が“言葉”になる日があるのです」
その一文に、静森はふっと呼吸を止めた。
“言葉になる日がある”
それは彼女が今まさに感じていた感覚そのものだった。
翌日。山道が静森の机にやってきた。
「どうだった?」
「……この手紙が、気になりました」
静森はその一通を差し出した。
山道は黙って読み、しばらく目を閉じた。
「いい声だね。……紙面に出そうか」
「……えっ、私が選んだのに?」
「“選んだ”んじゃなくて、“拾った”んだろ。そういうのは、ちゃんと届く」
静森の胸の奥で、なにかがほどけた。
夕方。印刷所への原稿整理を終えたあと、山道がふとつぶやいた。
「“声なき声”を聞ける人って、編集の世界では少ないんだよ」
「……そうなんですか」
「みんな、言ってることは聞ける。でも、言ってないことを聞こうとはしない」
その言葉が、静森の中に深く落ちていった。
その夜。
ノートにこんな言葉を書いた。
「音のない声にも、温度がある」
誰かが読まないなら、私が読む。
誰かが拾わないなら、私が拾う。
名刺には、まだ名前を書いていない。
でも、「声を拾う人」という肩書きなら、
もう自分のなかに、少しだけ持てた気がした。
名刺には、まだ名前を書いていない。
でも、「声を拾う人」という肩書きなら、
もう自分のなかに、少しだけ持てた気がした。
──空道。
名乗るにはまだ早い。けれど、心の中ではもう、その名を歩き始めていた。

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