第一章「はじまり」 第6話「肩書きより、名前で呼ばれたい」

(1969年・静森 22歳)

編集部の朝は、相変わらずバタついていた。
締切前の週になると、デスクには未チェックの原稿が山のように積まれ、電話の鳴り止まない空間に誰もが少しだけピリついていた。

静森は今や「文字起こし担当の新人」ではなく、
ひとつのコラム欄を持つ編集者になっていた。

担当は、「街の声」シリーズ。
地方の小さな町を歩きながら、そこに暮らす人々の“言葉にならない日常”を拾い、文字に起こす仕事だ。

月に1回の出張。
電車を乗り継ぎ、知らない駅に降り立つ。
路地裏の八百屋、神社の裏手、民家の縁側──
「あなたの暮らしで、大事にしているものは何ですか?」と尋ねる日々。

ある春の日。編集部に、新人が入った。

スーツ姿の青年が、緊張した面持ちで名刺を差し出してきた。
小さく、手が震えている。

「……北道です。よろしくお願いします」

静森はその名刺を受け取った瞬間、言葉を失った。

北道 行森(きたみち いくもり)

“森”“道”“行く”──
自分の名前と似た音が並んでいる。

「……あ、ごめんなさい。ちょっと、珍しいお名前ですね」

声が少し上ずった。
意図的ではないのに、内側で何かがかすかに触れた。

「北道さん、あんまり緊張しすぎないで。ここ、そう見えてけっこう優しい場所だから」

そう声をかけた自分に、静森はふと気づく。
かつて自分が言われた言葉を、今、自分が使っている。
不思議とそれが、嫌じゃなかった。

北道行森は、大学を出たばかりの新卒だった。
同い年。だが、違う景色を歩いてきた人だった。

その日の午後、山道が静森の席にやってきた。
片手にコーヒー、もう片方には赤いペンと紙の束。

「静森、次の特集、ちょっと構成を変えてみないか」

「どう変えるんですか?」

「“街の声”と“専門家の分析”を並べて掲載する。
現場と理論、両方の視点が交差すると、読者の中で“揺れ”が起きるから」

静森はその“揺れ”という言葉に引っかかった。

「……人って、“どっちも正しい”って状況に出会うと、少し優しくなる気がする」

山道は笑った。

「君もだいぶ、編集者っぽくなってきたな」

「でもまだ、“アシスタント”ですよ」

「肩書きより、“名前”で読者は覚えるもんだよ」


その夜、書店に立ち寄ると、『くらしと文化』の最新号が棚に並んでいた。
「文・静森」と、欄外に小さく印字されている。

それだけなのに、心がひとつ、すっと澄んだ。

家に帰ると、母は台所で明日の味噌汁の下ごしらえをしていた。
静森は、窓際の机に座り、小さなノートを開いた。

名前は、風よりも静かに届くもの

自分の名前も。
誰かの名前も。
どこかで誰かの中に、小さな余白を残すのかもしれない。

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