(1974年・静森27歳)
「久しぶりだね。……一年ぶりかな」
金曜の夜、神保町の古びた居酒屋。
誘ったのは北道だった。
「静森さん、元気そうでよかった」
「ううん、全然。まだ仕事も決まってないし」
笑って言ったが、その笑顔に力はなかった。
辞めてからちょうど一年。何も決まらないまま、春が来ていた。
「実はさ」
北道が、少し照れたように話し始めた。
「山道さんに言われて……“静森さん、まだ決まってないのか?”って。
で、日本出版で人を探してるって聞いたんだよ。編集職」
「……えっ?」
思わず、ビールのグラスを置いた。
「大手じゃない。無理だよ」
「いや、そう思ったんだけど、山道さんが“今の静森なら通る”って。
それに──俺もそう思う」
少し沈黙があった。
「……わたし、文字で“仕組み”をつくるのが好きなの」
ぽつりと出たその言葉に、北道は驚いたように目を見開いた。
「“書く”よりも、“編む”のが好き。
誰かの言葉をつないで、届く形に整えていくのが」
そのとき、自分が今まで何を求めていたのか──ようやくわかった気がした。
翌週。
日本出版の面接。
大きなビル、丁寧な受付、整った資料。すべてが整然としていた。
面接官は三人。そのうちひとり──前列右側にいた女性が印象的だった。
姿勢がまっすぐで、黒髪をすっきりまとめている。
目が合うと、鋭いというより、よく見ようとする目をしていた。
「“ことば”に何を期待していますか?」
面接の終盤、その女性が尋ねた。
静森は、言葉を選ばずに答えた。
「期待、ではなくて……頼ってる気がします。
でも、“ことば”そのものより、それを伝えようとする“気配”のほうに」
面接後、エレベーターを待つ間、手が少し震えていた。
でも、胸の奥は、ずっと静かだった。
採用の連絡は、三日後に届いた。
封筒を開けた瞬間、母が「おめでとう」と言う前に、静森は涙をこぼしていた。
入社初日。
会議室で名簿が配られ、担当チームの上司名が記されていた。
──新道水森(しんどう みもり)
女性、31歳。
扉が開くと、あの日の面接官が入ってきた。
無駄のない動きで、全員を見渡したあと、微笑みもせずこう言った。
「今日から“仕組みをつくる人たち”の仲間です。
覚悟と遊び心、どちらも忘れずにいてください」
その声を聞いた瞬間、静森はふと、昔のノートを思い出した。
──「音のない声が、今日もあった」
あの日から、何年も経った。
でも今、その“声”はたしかにここにあった。

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